ほっじぽっじすてーしょん

広く浅い、多趣味野郎の時事録

 生温い空気に満たされた部屋で僕は目を覚ました。
 それは覚醒とは程遠い、間延びした目覚め。寝ぼけた思考回路はゆっくりと、しかし着実に自分自身を動かすためのプロセスを取り戻していく。
 呼吸の仕方、手先の動かし方、物の見方、日時の概念、予定……とそこに至って僕の意識はようやく理性を取り戻す。そんな当たり前の事をわざわざ思い出すのは無駄なことだと、覚醒した脳が正しく理解する。
 おぼろげな視界に映るのは見慣れたゴミ溜め。自分の万年床と、そこに出入りするための通り道だけがゴミを搔き分けるように存在している。
 それはまるで雑木林に作られた獣道のようだった。雑多で汚く、利用するモノのためだけに作られた都合のいい理が支配する狭い世界。
 僕を囲むそれらのゴミには色々な種類があった。生活品のゴミ、食品のゴミ、書類のゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ。もちろん、かつてはゴミではなかった物もこの部屋には沢山ある。しかし、今となっては全てが等しくゴミに成り果ててしまった。それは仕方のないことだと思う反面、なんだか少しだけ虚しい。
「おはよう、今日も遅い目覚めだな」
 声は平積みになっている本の上に腰掛ける影から発せられたものだ。
「……いつも言ってるけど、本の上に腰掛けるのだけはやめろ」
「おお、悪い悪い。他に座るところが無いもんでな」
 影はのそりと立ち上がり、カッカッカと笑いながらゴミの中へ豪快に腰を落とす。それは「下ろす」なんて生易しい座り方では無い。影に押しつぶされたゴミはバリバリと耳障りな音をたてながら潰れ、圧縮された。
 ふわりと舞い上がる埃におもわず顔を顰める。最悪の目覚め。しかし、こんなやり取りに慣れてしまっている自分が居るのも否定できない。
「……なぁ、いい加減俺を頼れよ」
「いや、今日は大丈夫かな」
 いつも通りの問いかけから逃げるように、僕は曖昧な言葉でお茶を濁す。「今日の昼飯はどうする」なんて言葉と同じような気楽さで差し込まれる冷たい問いかけ。それに答える術を僕は持たない。
「ふぅん、そうか」
 それっきり影は言葉を発することなく、黒いノイズで編まれた身体の中でただ炯々と光る眼で僕を見つめ続ける。その美しさ、完全さに惹かれつつある自分を自覚しながら、僕は必死に影から目を背け続ける。

 

       †

 

 僕の傍に寄り添う影の存在に気付いたのは小学校の高学年の頃だったと思う。特筆するようなきっかけがあったわけでもなく、影は突然僕の傍に現れた。
 いや、現れたというのは正確では無いのかもしれない。きっと僕が影を視ることが出来るようになっただけで、影自身は僕が生まれた瞬間から僕に寄り添っていたのだと思う。
 影はいつでも、どんなところにでも現れた。薄汚れた自動販売機の横、怪しげなチラシが貼られた電柱の裏、曇天に沈む教室の窓辺。なんの変哲も無い日々の中に紛れ込むように、影は付かず離れずの距離から僕を眺め続けているようだった。
 当時の僕はそんな影の存在に恐怖し、目を合わせるたびに泣いてしまった。
 自分にしか視えていないのではないかという恐怖。
 みんなにも影が付いているのではないかという恐怖。
 僕たちは影に支配されているのではないかという恐怖。
 挙げ始めればキリがないほどに、僕は様々な形で影を恐怖した。
 しかし、人というのは何事にも慣れる生き物だ。影と常に向き合い続けているうち、いつしか影は僕の日常の一部になっていた。
 そして、日常というフィルターに一度組み込まれてしまえばあとはどうということはない。意識しなければ観測する必要性を感じることもないのだから、それは有って無いものでしかない。
 時折、なんの気まぐれか影のほうから話しかけてくることもあったけれど、僕はその一切を無視し続けた。恐怖していたからではなく、ただただ興味が無かったからだ。
 しかし、それも今となっては曖昧だ。ひょっとしたら、僕は考えることが面倒だったから影と向き合うことを諦めていたのかもしれない。もしそうだとしたら、きっと僕はそのときに負った負債をたった今取り戻している最中なのだろう。
 影の声が鮮明に聞こえるようになったのはここ数年のことだ。なんの変哲も無いただの日常、その延長線上で。
「なぁ、そろそろ俺を頼れよ」
 影は僕の肩に優しく手をかけ、微笑みながらそう言った。もちろん、影には表情などない。ノイズ塗れの顔には黄色く輝く一対の瞳が存在するだけで、そこから読み取れる感情は殆ど無いからだ。しかし、その言葉の抑揚に含まれていたものは紛れもない慈愛の感情だった。他の誰でも無い、自分だけがお前を理解しているという絶対的な自信を隠しもしない。
 思わず身を委ねてしまいそうになるその魔的な魅力に、僕は十数年ぶりに恐怖した。無遠慮に懐に差し込まれる生暖かな手のひら。その行為に嫌悪感を抱かないという事実を嫌悪した。幼い頃に感じたよりも影はずっと身近な存在なのだということを、僕はこのとき強く感じたのだ。

 

        †


「なぁ、今日はいい天気だぞ。せっかくの休みなのに出かけないのか」
 なにをするでもなく、ただジッと思いを巡らせていたところに影が声をかけてきた。あの問いかけをするとき以外、影はくだけた態度を隠そうともしない。僕の一番そばにいた存在なのだから、今さら気兼ねする必要性を感じていないのだろう。
 締め切ったカーテンの隙間から差し込む光は、たしかに外が「いい天気」であることを告げていた。はらはらと舞う埃の粒が光を受けて輝いている。その輝きは僕の顔を顰めさせるには充分な光量と熱量を孕んでいた。
「別に、行きたいところもないし。金の無駄だ」
 影は瞳をぱちくりとさせながら首を傾げる。
「なんだ、ちょっと前までは意味もなく一人で遠出してたじゃないか。好きだったろう、そういうの」
 影はいやらしくニヤついているようだった。影のこういう行動は僕を心底憂鬱にさせる。本当はわかりきっているくせに、わざわざ僕自身の言葉として引き出そうとしているのだ。
 要は解剖実験と同じ。カエルの体内には心臓があり、脚には発達した筋肉が付いているなんてことはわざわざ身体を開かなくてもわかりきったことだ。それでも僕たちは、影は嬉々として身体を開く。その実態を経験として暴くために。生暖かい熱を放つ臓物に好奇の目を向け、発達した筋繊維に電極を差し込み、外的刺激でぴくぴくと反応する様子を愉しむ。
「……何度もやったから、無駄だって気付いたんだよ」
 そんな影の趣味に付き合うつもりもない。適当な言い訳をしながらパソコンのディスプレイの電源を入れる。
 なんのことはない、ただ持て余す時間を消費するためにインターネットを徘徊するためだ。
 インターネットサーフィンは省エネの極地だと思う。電気エネルギーを使用する点においては定かではないが、少なくとも肉体的、精神的なエネルギーの消費は少なくて済む。全ての出来事はディスプレイ越しの遠い場所で起きた出来事であり、そこに僕自身の主観が介在する余地などない。車窓を流れ行く景色を眺めるように、綺麗だとか、すごいなとか思っているだけであっという間に時間が経過する。仮に車窓から凄惨な光景ー例えば民家が火事になっているだとかーが見えたとしても、それは外の世界で起きたことであって地続きではないのだから僕が心を痛める必要も一切ない。精々「ああ、可哀想だな」とでも思っておけば、自分の良心も簡単に慰めることができる。見るべきものがないのなら、なんのことはない。ただ眠ってしまえばいいだけだ。かけるべき熱量も必要ない、惰性が支配する究極の暇つぶし。
 ページをスクロールさせながら、流れていく文字を事務的に追う。眼球を介して脳に入力される文字列は一時的に朧げな像を結び、跡形もなくほどけていく。散り散りになった情報たちを拾おうともせず、僕はただひたすらに広大な海の中へと沈んでいく。苦しくはない。ただ虚しいだけ。
「楽しいか」
「ああ、楽しいよ」
 決して影と目を合わせないように、僕はそう答えた。

 

        †

 

 ディスプレイが放つ青白い光が目に痛くなってきた頃、いつのまにか陽が沈んでいることに気がついた。外から差し込む健康的な光はいつしか姿を消し、不健康な明かりだけが僕の顔を照らし出している。影は先ほどまでと変わらず、闇の中からこちらを眺めて続けていた。話をするのも面倒だったので無視し続けたのが功を奏したのか、流石の影も話しかけるのを諦めていたようだ。
 しかし、暗闇に浮かぶ一対の光球がこちらを眺めているという状況はお世辞にも心地いいとは言えない。コンビニのビニール袋に埋もれた照明のリモコンを手探りで見つけ、スイッチを入れる。自分以外の人間だったらゴミ山の中からこのリモコンを見つけることが出来ず、暗闇に取り残されるのだろうと考えるとなんだかおかしかった。
「んあ……気は済んだのか」
「……お前、ひょっとして寝てたのか」
「まあ、厳密には違うがそんなところだな」
 ばきりという音が聞こえてきそうなほどに、影は体のあちこちをひねっている。人のかたちをした異形がそんな人間くさい仕草をしているのはなんだかシュールだった。
「流石の俺もディスプレイに噛り付いているだけの野郎を眺め続ける趣味はない」
 同感だ。逆の立場だったなら僕だってそうしただろう。それにしても、
「お前も寝たりするんだな」
 影は常に僕を眺め続けていると思っていたから意外だった。少くなくともそういった生理的な現象とは無縁な存在だと思っていた。いや、ひょっとしたら僕が気づかなかっただけで、今までも影から離れた時があったのかもしれない。
「厳密には違うって言ってるだろうが。安心しろ、俺はいつでもお前を視ている」
 ニコリと、影の瞳が三日月型になる。
 俺はいつでもお前を視ている。
 だから、いつでも頼っていいんだぞ。という言葉を言外に感じつつ、僕はふと気になった。
「なあ、お前は夢をみるのか」
「馬鹿なこと言うなよ。俺は夢なんてみないさ」
 心外だ、というふうに影は大げさなジェスチャーで首を振る。
「俺たちは決して相入れないし、相入れてはならない。夢が北なら俺は南、夢が朝なら俺は夜ってふうにな。人は俺を忘れるために夢をみるし、夢をみれなくなった時に俺をみる」
「わけわかんないよ」
「わかんねぇじゃねぇ、お前がわかろうとしてねぇだけだ」
 そんなことは自分が一番よくわかっている、ということすらも影はお見通しだろう。言葉にできない言語で、僕と影は会話している。形にしたくない僕の深奥を、影はいとも容易く暴き出す。そうして這いずりながら出てきた醜悪な形から僕は必死に目を背け続ける。
 そういえば、昼頃に起きてからなにも口にしていない。箱買いしたカップ麺がまだ3つくらいは余っているはずだから、それを食べることにした。
 ゴミ山の獣道を通り、居間から出るとひんやりとした空気が身を包んだ。冷めたいフローリングが足にしみる。あまり気にしていなかったが、こうして寒さを感じるといやが応にも季節を感じる。冬が近づいているという実感とともに、春と夏はいつのまに終わったのだろうかと首をかしげた。気がつかなかったということは、少なくとも寒暖の変化に対して不快感を持たなかったわけだから、身体は勝手に季節に順応していたのだろう。しかし、もうずっと前から僕の中にあったはずの季節感という当然の感覚は麻痺していたのかもしれない。
「毎日それで飽きねぇのか」
「狭いんだから、わざわざこっちに来るなよ」
 お湯を沸かしながらガスコンロが放つ青い炎をぼんやりと眺めていると、身をかがめながら影が近づいてきた。玄関から居間へと伸びる廊下に設置された狭苦しいキッチンのキャパシティはどう考えても1人が限度だ。
「……別に、空腹がまぎれればいい」
 これは本音だ。ここ最近は特に食に対する関心が薄い。美味しいものを食べたいだとか、身体に良いものを食べたいだなんて余裕はどこにもなかった。
 腹は減る。それは困る。だから食べる。
 この上なく簡単な理由で僕はモノを食べている。身体に悪いなんてことは百も承知だけれど、そんないつ回ってくるのかもわからないツケのために割けるだけの熱意を僕は持ち合わせていない。だからお湯を沸かしている今だって、僕はこれから食べるカップ麺ではなくヤカンの下でちらちらと揺れる青い炎に惹かれている。ただ美しいと、思う。
「つまらねぇなぁ」
「そうだな、つまらないよ」
 適当な相槌をうつ。そうこうしているうちにヤカンの口からはシューシューという音とともに湯気が立ち上り始めた。美しく輝く青い火を消し、くだらないカップ麺に意識を移す。機械的な動作でお湯を注いでいる時、僕は初めてこのカップ麺がしょうゆ味だということに気がついた。どうでもいいことだ。
 箱に残ったカップ麺は残り2つ。あと2日は食べられることに安堵した。

 

       †

 

 食事というにはあまりにもお粗末な行為を済ませ、僕は早々に万年床へと潜り込み、明かりを消した。自らの匂いが染み付いた掛け布団を羽織ると自分自身の上からさらに分厚い自分を重ねるような気がしてどうしようもなく息苦しくなった。こうして僕はどんどん奥に沈み込んでいく。誰からも決して触れられない場所に本当の自分を追いやっていく。眠るにはまだ早い。でも起きている意味もない。だから僕はキツく目を閉じ、夜が永遠に続くことを願う。
 夜を嗜好するのは明日が怖いからだ。それを自覚しているから、僕は目蓋をより一層キツく閉じる。胎児のようにひざを抱え、まるくなる。
 目蓋の裏には行き場をなくした感情たちが渦巻いていた。真っ暗な脳裏をぐるぐると流れるイメージの濁流に流されてしまわないように、僕は必死に歯をくいしばる。いや、いっそのこと流されてしまったほうがいいのかもしれない。下手にしがみついているからこそ苦しいのであって、流されてしまえばあとは流れに身を任せるだけになるのだから。どこかにぶつかろうが、なにかがぶつかろうが、そこには僕の意識が介在する余地はない。簡単だ。楽チンだ。
 仕方がないと諦観するのは簡単だ。無意識に傷つくのは楽チンだ。そうして螺旋を描きながら流れ落ちていく先が天国ではないという確証がどこにあるというのだ。
 噛み締めているはずの奥歯がガチガチと音をたてる。ーうるさい。
 キツく閉じた目蓋の間から、居場所を失った涙が零れ落ちていく。ー熱い。
 緊張しきった心臓と肺が、喘ぐように酸素を求める。ー苦しい。
 ついに僕は耐えきれなくなって目蓋を開く。いたたまれない想いで夜を覗く。真っ暗な部屋にポツリと浮かぶ、影と目があった。
「……もういいだろう? お前は十分苦しんださ」
 無様な涙に塗れた僕を見下ろしながら、影はゾッとするほど優しい声で僕を慰める。
「……違う、僕は苦しくなんてない。苦しくないから、どうしようもなく虚しいんだ」
 嘘だ。自分でもわかりきっている嘘を、僕は平然と口にする。この強がりだけが残された最後の砦だというように。苦しいことを認めてしまえば自分が瞬く間に崩れ去ってしまうのではないかという恐怖に駆られて嘘をつく。
 当然、それは影もわかりきっていただろう。しかし、影はあえてそれを追求しようとはしなかった。本題に入るとき、影は異様なまでに優しくなる。睨みつける僕を尻目に、「いいか? 」と前置きして影は語り出す。
「意味のないことに意味を見出せなくなったとき、その余裕がなくなったとき、お前は一番大切なお前自身の意味すら失う。今のお前はその一歩手前なんだ」
 労うように、影は僕の肩に触れる。
「苦しくないわけがない、辛くないわけがない。お前は十分に苦しんだし、十分に苦悩した。なぁ、そうだろう」
 うるさい黙れ、という言葉をしっかりと音にすることができたかどうかもわからない。それほどまでに僕は追い詰められ、情けないことに安堵していた。
「誰にも逃げず、自分の苦悩と対峙し続けたお前を笑えるやつなんてこの世にはいない。そんなお前の選択を、否定できるやつなんて誰もいない」
 本当に、本当にそうなのだろうか。僕よりも苦しい思いをしている人は世の中にはごまんと居る。肉体的にも、精神的にも、僕はきっと恵まれている側の人間だ。そんな境遇にあるにも関わらず、勝手に苦しんだふりをして熱のない涙を流す僕はそんな大層な人間ではない。
 そんな僕の鬱屈とした想いを否定するように、影はゆっくりと首を振る。
「他人の苦悩と自分の苦悩を比較することなんて馬鹿でもできる。そうやって自分の中で苦悩の優劣をつけて自らを高いところに置こうとするやつなんて、それこそごまんと居るんだよ」
 自らの苦悩の行き場を他者に求め、都合のいい答えを得たような気になって苦悩から逃げる。抱えるべき自らの苦悩さえも軽々しく他者に委託する。それはとんでもない間違いだと、影は呟く。
「でもな、お前は逃げなかった。ただひたすらに自分の意味を自らのうちに問い続けた。それはそうそうできることじゃあない」
 影の言葉はすでに音ではなくなっていた。その一語一語は大気を介して鼓膜に伝わる振動としてではなく、やわらかな響きを持って僕の最奥を揺らしていた。
「そうして向き合い続けた結果を、お前が自分で導き出した答えを否定できるのはお前だけなんだよ。だからー」
 あの問いがくることはわかりきっていた。僕が影を視ることができるようになってから、幾度となく繰り返されてきた問い。
 自らを被る万年床の闇の中。
 快速電車が駆け抜けていく駅のホーム。
 対向車線からぶつけられる車のヘッドライト。
 引き裂いた封筒を投げ込んだゴミ箱。
 はるか先を行く、近かったはずの遠い誰かの背中。
 そんな景色の片隅で、いつだって影は僕にこう囁くのだ。

「なぁ、俺を頼れよ」

 影が僕に手を差し出す。黒々とした闇よりも暗い右手。輪郭でさえ不確かであるのに、確固としてそこに存在する右手。それは今まで以上に魅力的で、抗いがたい誘惑を纏っていた。
 掴むのは、きっと容易い。ほんの一欠片の勇気があれば、僕は影の手をとることができるだろう。とうに意味を失いつつある自分の形に、答え合わせをしてあげられるのはもう自分しかいない。だからこそ、まだ意味があるうちに僕は影の手をとらなければならない。そうでなければ、苦悩し続けたかつての自分に申し訳が立たないではないか。
 涙がとめどなく溢れてくる。熱を失ったはずの自分の中から、未だにこれだけの熱量が溢れ出すことに驚いた。それを必死になってこらえるように、ぎしりと歯を鳴らすこの感情の正体を僕は知らない。
 今まさに影の手を掴もうとするこの手のひらは、一体なにを掴もうとしていたのだろうか。熱にうかされたように、ぼんやりとした頭で想いを馳せる。思い出すこともできない遠い昔、確かにこの手は影ではない何かに向けて伸ばしていたはずだ。

 降り積もる雪の中で佇む2人だけの逢瀬。
 自らの理想に立ち向かう、理想を追い求める少年。
 青白い月明かりが照らす、誰かに救われた誰か。

 もう届かないはずの場所で人の気も知らず煌々と輝く星の断片に、かつての夢を見た。

「……いや、まだ大丈夫」
 弱気で強がるその言葉をはっきりと発声出来た自信はない。だが、絞り出すようなその声でも影にはしっかりと伝わったらしい。先ほどまで饒舌だった影は興味を失ったようにスッと僕から離れ、なんの言葉も発することなく暗闇の中から僕を眺めはじめた。
 やはり今日も眠ることは出来そうにない。苦悩はあいも変わらず僕をさいなみ、僕は明日を恐怖する。そんな僕の姿を見て、影は満足げな笑みを浮かべているようだった。
「大丈夫、俺はいつでも待ってるからな」
 ああ、わかってるよ。お前はどうしようもなく魅力的で、僕は弱いからついその手をとってしまいたくなるんだ。それが簡単だと知っているから、ほんの僅かな勇気を振り絞って縋りついてしまいたくなるんだよ。
「おやすみ、また明日」
 心底楽しげに笑う影の言葉に、返す言葉を僕は持たなかった。