ほっじぽっじすてーしょん

広く浅い、多趣味野郎の時事録

生きる肢体

「彼は死んでいるのですか? 」
 僕が問いかけると、目の前の医師は少しばかり眉を寄せた。
 病室の中は不気味なほどに清潔だ。窓から差し込む陽光が白一色の床や壁面で乱反射して、まるで白昼夢の中にいるかのようなぼんやりとした光が部屋を満たしている。
「難しい質問ですが、私の立場としては『生きている』と言わざるをえないでしょう」
 先程わずかに垣間見せた人間らしい反応が嘘のように、医師は鉄面皮でそう言った。四角いメガネの奥に沈む瞳の中からは、おおよその人間味といったものが感じられない。道端に立てられた標識をただ何となくぼうっと眺めている時、人はきっとあんな目つきになる。そこには感情も、理性も含まれていない。ただ単にそこにある事実を見つめ、受け止めず、暇を持て余す 脳の処理機能を弄ぶ忘我の領域。
 だとすれば、彼が我を忘れたのはいつなのだろうかと、意趣返しのつもりで僕も忘我の領域で考えてみる。どうでもいいことを 思考回路の片隅で弄ぶ。
 僕たちはお互いに交わす言葉を失った。元々言葉を交わす意味なんて無かったのだから当然と言えば当然の事だろう。無意味に気まずい沈黙の中で、規則正しいリズムで時を刻む電子音だけが単色の病室の中で色を放つ。
 それは目の前に横たわる『彼』の心音、その代替物。単調な機械音ではあるけれど、無機質なこの部屋の中ではもっとも生気に満ちた存在。『彼』が生きているという、なによりの証拠。でも、僕にはそれが納得出来ない。
「もう彼が目覚めることはないんですよね」
 僕はもう一度、確認のつもりで聞いてみる。
「はい。断言させていただきますが、二度と目覚めません。立って歩くことは二度とないでしょうし、腕はおろか指先の一本すら動かすことは不可能です」
 医師は小さなため息とともに、眼鏡の位置を直す。
「当然、瞼を開けることもないし、声を出すことも出来ません。さっきも説明した通りです」
 出来の悪い生徒を窘めるようなニュアンスを言外に感じるけれど、やはり僕は納得が出来なかった。
「それでも、『生きている』と言えるのですか」
「ええ、心臓が動いていますから」
「ほら、聞こえるでしょう」と言わんばかりに、医師は口を閉じ、耳に手を当てる。電子音は相も変わらずゆったりとしたテンポで時を刻み続けている。どうやら医師にはこの音が『彼』が緩やかに死へと向かうまでのカウントダウンに聞こえるようだ。
 この退屈な電子音がなっている限り『彼』は生きていて、心臓がこの音を奏でるのを諦めたとき、『彼』は初めて死ぬ。ただそれだけだ、と。
 そんな馬鹿げた話があるだろうか。
 生きている限りベッドの上に横たわり、わけの分からないチューブから流し込まれる食事で腹を満たす。昼夜の感覚も無く、時間からも社会からも断絶し、無意識のうちに差し込まれたカテーテルを介して排泄するだけの機械となり果てる。
 もしそれを『生きている』といえるのであれば、死体だって『生きている』。
「......『彼』はもう死んでいますよ」
 絞り出すように僕は真実を口にする。僕だって、それは決して認めたくないことだった。本当なら『彼』は生きているのだと思いたい。でも、こんな状態になってしまったら認めざるをえないじゃないか。この圧倒的な事実を前に、心音なんてものは『生きている証』としてはあまりにも不確かだ。
「......困りました。あなたは『彼は死んでいる』と思いたいんですね」
 やれやれという風に、医師は軽く頭を振った。「私としては、これは決して認めたくないことなのですが」そんな前置きをしたあと、医師は言葉をつなげる。
「正確に言うと『彼は生きている』という結論を出す権限を、私たち現代の医師は持ち合わせていないのです。残念なことに。それほどまでに、人間は人間自身を知りすぎてしまった。」
 人の意識の在処を、人を存命させる術を、そして人が人である意味を。人々は理解してしまった。
「仮に。大昔に『彼』と同じ状態になった患者が居たとしましょう。当然、『彼』を存命させるような高度な技術は存在しないですし、『彼』という人体を構成する各モジュールがどんな役割を持つのか知る人は誰もいません。そんな環境下に『彼』が置かれていたのであれば、私は自信を持って『彼は死んでいる』と言えるでしょう。もし心臓が動いていたとしても、それが止まるまでにはそれほど時間もかからないでしょうし」
 そんな時代だったら、そもそも心臓が動いている意味すら理解できないかもしれませんがね。何がおかしいのか、医師はそう言いながらくっくと喉の底を跳ね上げるような不気味な笑い声を上げる。耳障りな声はひどく僕を苛つかせた。
 知らず、心情が顔に現れてしまったのかもしれない。医師は気まずそうに咳払いを一つ。
「......しかし、現代ではそう簡単にはいきません。人体を構成する各モジュールの役割はとうに解明されてしまいました。どの部位が生きていて、どの部位が死んでいるのか。それが事細かに分かってしまう。困ったことに」
「困る? 何故ですか? 」
 全く可笑しな話じゃないか。仕組みを解明したというならば、『生きている』のか『死んでいる』のか一目瞭然ということではないのか。困る要素がどこにあると言うのだ。
「定義がね、出来ていないんですよ。『生きている』という事に関する定義が」
 医師は何かを思い出すように目を閉じ、右手の人差し指でトントンと自らのこめかみを叩く。
「また例え話になってしまって恐縮なのですが、故障してしまった機械を思い浮かべてください」
 どこかの歯車が壊れて動かなくなってしまった機械。
 プログラムがエラーを吐いて動かなくなってしまった機械。
 動力源から切断されて動かなくなってしまった機械。
 機械、機械、機械、機械、機械。
「私たちは幸いにもその機械の仕組みをある程度知っています。だから、ひょっとしたらそれを直すことが可能かもしれない」
 新しい歯車を差し込めば、プログラムのエラーを修正すれば、配線を張り直せば。機械は再び轟音をあげながら動き始める。それはあまりにも単純明快な答えに思える。
「では、故障している状態の機械は果たして『生きている』のでしょうか。それとも『死んでいる』のでしょうか」
 僕は答えに詰まった。たしかに、直せるのであれば『生きている』と言えるのかもしれない。しかし、故障している限り機械が動く事はない。それは『死んでいる』のと同じではないだろうか。強いて言うならば。
「『死んでいない』状態、としか」
 ぱんっという乾いた音が鳴った。それが医師が手を打ち鳴らしたものだと気づくのには少しばかりの時間を要した。
「その通りです。そんな状態は『死んでいない』としか言えないのです」
 求めていた答えを生徒自らの手で導き出した時、黒板の前に立つ教師はこんな顔をする。答えを導いた生徒自身ではなく、導くまでの過程を示した自らの功績に満足し、悦に入る。
「壊れている箇所も分かる。ひょっとしたら、それは修理出来るのかもしれない。しかし、その状態を正しく言語化することは非常に難しい」
 壊れている部分が分からないのであれば、なんの問題なくその機械は『死んだ』と言えるだろう。修理の目処が全く立たないのであれば、臆することなくその機械は『死んだ』と言えるだろう。
 しかし、困ったことに私たちは知ってしまった。機械の構造を。各モジュールの意味を。『生きている』と『死んでいる』の間に横たわる複雑怪奇な混沌を。
「機械であれば、その状態に定義付けをするのは簡単なことです。あくまで一例ですが、その機械が今後も必要ならば、修理にかかるコストと同じモノに買い換えるコストを天秤に掛ければ良いだけの話ですから。前者に傾けばその機械は『死んだ』と言えるし、後者に傾けばかろうじて『生きている』と言えるでしょう」
 眼鏡の奥底で輝きを失った瞳と視線が交わる。黒く濁ったそこには忘我の領域が広がっていた。
「ですが、人間はそう簡単にはいきません。当然の事ながら、人間には替えがありませんし、コストなんて分かり易いものさしで測ることも出来ません。少なくとも、人情という曖昧なフィールドの上では。そして、明確な定義付けが出来ないからこそ、私たち医師は『死んでいない人間』を『生きている』とも『死んでいる』とも言い切ることが出来ない。」
 機械よりも機械らしい雰囲気を持った医師が「人間は替えがきかない」だとか「人情」といった言葉を発しているのはなんだかとてもシュールだ。それはあんたからもっとも遠い分野だろうに。
「だったら、先生は何を根拠に「彼は生きている」と言うのですか。今の話の通りであれば、彼は『死んでいない』だけです」
「簡単な話ですよ。あくまで私は定義付けが出来ないというだけであって、定義付けしてくれる人間は他に居ますからね」
「それはいったい......」
 医師でも判断が出来ないような人の生き死にを、一体誰が判断するというのだ。
「彼に近しい人ですよ。家族、友人、恋人、エトセトラ、エトセトラ。それらのうち誰かが「彼は生きている」と判断したならば、私たちはその判断に従って『死んでいない彼』を『生きている』ものとして取り扱う。ただそれだけです」
 簡単でしょう。というように医師は肩をすくめてみせる。
「は、」
 思わず笑ってしまいそうになる。とってつけたかのような医師の仕草が滑稽だったからではない。その答えがあまりにもシンプルで、これ以上ないほどに無慈悲だったからだ。
 もはや彼の生き死にの決定権は彼自身にはない。第三者が願うままに、彼らの精神安定剤として『生かされている』だけだ。
「きっとよくなる」
「いつか目を覚ます」
「早く治ってね」
 そんな白々しい言葉を、生きる死体となった彼の前に並べて、彼らは自らの人間味を確かめる。
 優しい自分、慈愛に満ちた自分、健気な自分。
 それらの自分が確固たる存在としてここに在ると言う確証を得るために、彼らは医師を無意識のうちに動かし、彼の意志とは無関係に彼を生かし続ける。

 

 彼は優しさで生かされているのでは無い。優しさで殺されているのだ。

 

 一筋の熱が頬を伝って流れ落ちた。全く気が付かなかったが、僕は今泣いているらしい。
「では、改めて聞きます」
 なんだか医師の声が遠い。その声はまるで水底に投げ込まれた言葉のようで、くぐもっていて聞き取りにくい。不思議なことに、規則正しい電子音だけがハッキリと鮮明な音として耳に飛び込んでくる。
「あなたは生きていますか。それとも、死んでいますか」

 

 ああ、そうか。

 

 僕はここにきてようやく気が付いた。目の前に横たわっていた『彼』は『自分自身』だったということに。弱々しく横たわっているのも、わけのわからない機械に生かされているのも、単調な電子音に生の実感を求めているのも、全ては自分自信の姿だったのだ。
 先程まで向かい合ってたはずの医師は、ベッドの左側から僕を見下ろすように立っていた。窓から差し込む日差しが眼鏡のレンズに反射していて、何を見つめているのかは分からない。あの奥に広がっているのはやはり忘我の領域だろうか。いや、きっとそんなことはないのだろう。
「あなたは生きていますか。それとも、死んでいますか」
 先程と同じ問いが降ってきた。この病室に入ったばかりの僕であれば分からなかったかもしれない問い。でも、今ならその問いの意味が分かる。
 息苦しい呼吸器につながれる感覚。ぴくりとも動かない四肢。朧気な意識。
 『生きている』のか『死んでいる』のか。
 答えはもう出ている。しかし、性急に答える必要も無いだろう。だって僕はきっとこれからもしばらくは『生きている』し、『死んでいる』のだから。
 だから今は少しだけ休ませてほしい。ここ最近頭を使っていなかったものだから、些か疲れてしまった。
 心地よい微睡みに導かれがら、僕はゆっくりと瞼を閉じる。

 

 無音の世界が、僕を包み込んだ。