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ほっじぽっじすてーしょん

広く浅い、多趣味野郎の時事録

ある日の夢

創作

瞼を開いたとき、真っ先に僕はこの世界が夢であるということに気付いた。
だって、あまりに現実離れした風景だったから。
いや、正確に言うならば、目の前の景色は限りなくリアルだった。見覚えのある風景、見覚えのある建物。どうやっても見間違えようのない、純然たる僕のリアル。ただ、それらを取り巻く微妙な空気感、とでも言えばいいのだろうか。それが致命的なまでに間違っている。
僕は祖母の家の縁側に座っていた。周囲を山に囲まれた小さな村に建つ小民家。目の前には小さな川が流れていて、川の流れる音がここまで聞こえてくる。ただ、僕自身が思い出すかぎり、この家の縁側が使われているところを僕は見たことがない。物心付いた頃にはすでに物置スペースと化していたからだ。だから、こうしてまじまじと縁側を眺めるのは初めてなのだが、年季の入った横木は黒光りしていて、重ねた年月なりの威厳を湛えていた。その上で僕のような新参者が不遜な態度でふんぞり返っているのは、なんだか恐れ多い気がしてくる。直上から降り注ぐ夏の日差しから隠れるように、僕はこの縁側に腰掛けたようだった。日陰から僅かばかりはみ出した足先がじりじりと焼かれているのを感じる。汗が一筋、首筋を流れた。
ふと左手に視線を落とすと、僕は都合良く水の入った500mlのペットボトルを握りしめていた。暑さをごまかすため、ペットボトルの水を飲む。清涼感が喉を駆け抜けていくのも一瞬のことで、接種した水分はすぐさま汗となって吐き出されていった。
「今日は暑いね」
その時、僕は初めて隣に座っている少女の存在に気付いた。声のした方向、ようするに僕の右側だが、1mほどの間を空けて彼女は腰掛けていた。驚いたのはその容姿だ。純白のワンピースからのぞく、白磁のように透き通った肌。腰まで届きそうなさらさらとした金髪は日陰にあってなお淡い輝きを放ち、それをほっそりとした指先で弄んでいる。こんな日本の片田舎にはふさわしくない、幻想的とすら言える造形。
ほら、やっぱり夢だ。
夢は夢だと自覚することができれば自分の思うがままに出来る、なんて言葉をどこかで聞いたことがあるけれど、そんなのは嘘っぱちだということがわかった。
だって、どれだけ目を凝らしても彼女の顔だけは見ることは出来ないのだから。ほかの部分はくっきりと見えるのに、顔にだけ薄もやがかかって、そのディテールを曖昧にしている。ここらへんが僕の想像力の限界ということなのだろう。
「ねえ、キミはどうしてここに来たの?」
透き通った声で、彼女は僕にそう問いかける。僕を問いつめるような、一方で諭すような優しい声。
「......なんでだろうね、実は僕にも分からないんだ」
彼女の問いかけに、僕はなんだかバツが悪い気持ちになってしまう。
「ここに来た理由は無いのかもしれない。でもきっと意味はある。そんな気はする。」
自分でも不思議なくらいに、自然と言葉が口から漏れた。まるでそれが当然であるかのように、自分の意識より深いところの自分が、口べたな僕の代弁者を買って出たかのようだった。
「そう、だったら、ちゃーんと意味を見つけなきゃね」
白いサンダルを履いた足を無邪気にパタパタと遊ばせながら、彼女は何でもないことのようにそう言った。
「あ、見て、黒猫」
彼女が指さした先を見ると、全身黒一色の猫がこちらに背を向けて座っていた。身を焼き尽くさんばかりの日差しを一身に受けることを決意したかのようなその佇まいは、人々の罪を一身に背負おうとしたどこぞの聖人を思わせた。
「こっちにおいで」
ちっちっち、と彼女は黒猫の気を惹こうとするが、黒猫がこちらを向く気配はなく、ただ呼びかけに応じる形で力なく尻尾を左右に振っている。
黒猫は、ただひたすらに一点を見つめ続けていた。その視線の先には、
「......鯉のぼり?」
高い支柱に括り付けられた季節はずれの鯉のぼりが、ゆらゆらと揺れていた。照りつける太陽と山々の深い緑、それらと極彩色の鯉のぼりが織りなす非現実のコントラスト。
黒猫の側に近づいて、一緒に鯉のぼりを見上げてみる。広大な青空を背にたなびく鯉のぼりは、なるほど、確かに清流を泳ぐ鯉に見えるかもしれない。
「なんだ、魚でも食いたくなったのか?」
僕は冗談めかして言いながら、黒猫の体を撫でる。想像よりもずっと猫の体は冷たかった。どれだけ撫でても、猫は一向に鯉のぼりから視線を外そうとしない。
「......そう、あなたも鯉のぼりを上げたかったのね。」
気が付くと彼女も黒猫の側に来ていた。行儀良くワンピースの裾を抑えながらしゃがみ込み、優しく黒猫の頭を撫でる。
「大丈夫。きっと、今度は叶うわ。私が保証する」
いつのまにか湿り気を帯びた声で彼女がそう呼びかけると、黒猫はようやく鯉のぼりから視線を外し、しゃがれたような汚い声で一鳴きした。
なぜだろうか、その光景を見ているとどうしようもなく悲しい気持ちになる。知らず涙腺が緩み、目尻から熱がこぼれ落ちそうになるのを感じる。
だが、違う。これはきっと相応しくない感情だ。それだけは、何となく分かる。だから、僕は溢れ出しそうになる感情を抑えるため、必死に笑顔を作った。うまく出来ている保証はない。無様かもしれないけれど、こっちのほうが泣き顔よりも幾分かマシだろう。
その時、一際強い風が吹いた。汗で湿った肌の熱を、夏の風が空へとさらっていく。支柱に鯉のぼりを括り付けている紐がほどけ、重力から解放された鯉のぼりはフワリと空に浮かぶ。ああ、その姿はまるで、

天を往く龍のようだ。

支柱から力強く飛び立った龍は徐々に小さくなり、空高くそびえ立つ積乱雲の向こうへと去っていった。
そして、ここには僕と彼女だけが残された。
指先、足先、体の末端から感覚が消失していく。世界が日差しに満たされていく。
夢から覚めるのだと、本能が理解する。
「どう?ここに来た意味は見つかった?」
朧気になる景色の中、蜃気楼の向こう側から彼女が問いかける。
「うん……きっと……」
強烈な夏の日差し、きらきらしたペットボトル、儚げな彼女、冷たい黒猫、鯉のぼり。
覚えている。この感情を、この景色を、この現実を。だからこそー。
「またいつか」
そう、力強く答えることが出来るのだ。
「絶対に忘れないでね、その意味を。そしてー」
瞬きの間をおいて
「その時になったら、また会いましょう」
いたずらっぽくそう言う彼女は、いままで見たことが無いほど美しい笑顔を浮かべていた。